欽明天皇(第29代)乃弐   

2007年 06月 02日

 継体天皇と手白香皇后(たしらかのひめみこ)の間の息子である。宣化天皇が、身罷った時に、安閑天皇の皇后である山田皇后を推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が12月5日に即位した。宣化天皇の皇女石姫を皇后とし敏達天皇を儲けたほか、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父でもある。

 なお、継体天皇の死後、安閑天皇、宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していた、あるいは内乱があったという説がある(「辛亥の変」説)。また、実際には即位していない安閑・宣化をそれぞれ暗殺、監禁させた後即位し、彼ら庶兄を後継に推した大伴金村を追放した説がある。

 この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
 552年に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、538年とする説が有力である。)。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。

 百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば538年)、さらに554年に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。562年には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。(『日本書紀』には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。同年の『三国史記』の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたと言う似た記述が見られる。)同年高句麗にも軍を送っている(『三国史記』では554年に似た記述が存在する。)

 なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であると言う記載が『日本書紀』にある。

 ちょうどこのころは、大和朝廷が任那からの影響力を失い、新羅が任那を圧迫しており、百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。

 欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。
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by syoya44 | 2007-06-02 19:14

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